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講義「経済思想」小レポート2013

 


 

経済思想I 小レポートまとめ 西本 紗保美

2013年7月15

 

 3回の小レポートをまとめるにあたって、主な論点を資本主義社会発展の原動力となった消費、その発展を担う企業家、そして芸術とし、市場、公共のおよぼす作用について考え、さらに人間が精神的に豊かに生きるとはどういうことかについて自分の考えを述べる。

 

まず、消費社会について、ボードリヤールの主張を参照すると、70年代以降の豊かさの実現した社会においては、人々は同じ層の人間と自らを差異化するためのコードを手に入れる消費行動に向かっている。現代では階層が薄れて自己を顕示する必要がなくなり、逆に平等な社会になり個人が埋没していくことで、同じ層からは抜け出せなくても他者との差異化を図り、80年代のようなライフスタイルの美学を追及させる社会へ向かっていったのだろう。では、現代ではどうだろうか。たとえば、TwitterFacebookなどのSNSを使えば知人に近況を知らせたり、好きな音楽、ファッションなどをシェアして、自己をより魅力的に演出することが容易になる。このような社会では差異化がますます進み、他人との違いをアピールすることがさらに困難になるのではないかと予想できる。すると更なる差異化の欲求に対応するためコード化がますます進み、たとえ紙媒体などが消えていっても消費社会は加速していくだろう。

 日本の社会でいうと、たとえばかつての花形だったテレビなの家電産業は国内市場が成熟し、生産側の戦略としては画質をさらに向上させる4K8Kなどの新機能を作って購買意欲を起こしたいところではあるが、今やほとんどの家庭にそこそこ高画質のテレビがあるという状態では、比較的高い耐久性や買い替えの諸経費などを加味すると、企業側の利益を上げることは困難かもしれない。これに対して、たとえば耐久消費財の化粧品は、女優等を起用した広告で「今の自分はこんな美しさが欠けている」と思わせることが容易に可能であり、同じようにダイエット商品の宣伝でも常人離れにやせたモデルを使って消費者のコンプレックスをあおるような手法をよく見かける。このような企業の利益は消費者の欠如を完全に満たさない限りまだ拡大の余地があるだろう。

 

 次にそのような消費を提供する企業家の立場について考える。シュンペーターの理論では企業家の像を、権威がなく偏狭で、独立独歩、賢明さも教養、魅力もない、神経質と描いており、一方大勢順応的な面もあるとしている。

 また、シュンペーターは快楽的利己主義を批判し、企業家は獲得財貨の消費によって得られる快楽によって動機づけられるものではないとしているが、その代わりとして「自分の王朝」を樹立すること、闘争意欲、創造の喜びなどを挙げている。

 消費社会の一員として安易な消費に甘んじ短期的な満足を得ることを拒むのなら、企業家として自らの能力の限界に挑戦し、競争の中で創造的、独創的な仕事を行うことで自己実現を達成するという道もあるように思える。だが、たとえばスポーツの世界などでは、闘争心やプライド、実力主義などが選手を動機付け、素晴らしい試合を行うことによって観客を熱狂させるが、経済においては企業家一人一人が私的帝国建設を目指して競争を繰り広げることで弱肉強食となり、必ず強者と弱者が生まれるだろう。スポーツの勝ち負けと同じではなく、経済の敗北は弱者を生活、社会的基盤の喪失、先の見えない不安などにより蝕むだろう。

 

 最後に芸術について、ラスキンは主要都市に試験的訓練学校を設け、いわゆる問題児らを入学させて安定した職業を与えることを主張している。競争を起こして淘汰させるのではなく、全員に適当な生活の質を与えて能力を十分に発揮させる機会を与えるというものである。著名な画家の中では若いときにひどく苦労をしたが後年に注目され著名になった者や、生前は全く評価されず極貧にあえいで死後評価が高まるという者もいる。もしラスキンの制度が導入された場合、今まで必要な教育を受けられなかった者が才能を開花させるという可能性は十分にあり得るし、芸術が金持ちのものだけではない多様さを持つことができるかもしれない。しかし、往々にして一流の芸術家は貧困や社会的差別などといった不条理を糧にすばらしい作品を作り出すことが多いように思える。たとえば、20世紀を代表するイギリスの画家フランシス・ベーコンは、学校教育というものを受けることができず、また当時は認められていなかった同性愛者であったが、抑圧された精神を見事に評価して高い評価を受けた。天才と呼ばれる画家たちが成功したゆえんは、生まれながらにもった豊かな才能と、作品へと向けられる精神的エネルギー(その源泉は不条理的なものも含まれるのではないか)、そして世間から注目される幸運と金銭的要因に大別されると考える。金銭的要因に関しては才能があるものへ必要に応じて公共から援助をすればなおよいが、訓練学校を作ったところで脱落してしまう者も少なくはないと考えられるので、公共化するのが最善かどうかはわからないと感じた。また、人々がすぐれた作品に価値を見出すのは社会への批判、挑戦的な態度を評価するという要因もあるため、公共の訓練学校だとそれを抑制しかねないのではないかと感じた。

 

 市場社会は大量生産などによって人々の生活を豊かで便利なものにしたが、同時に際限のない消費に陥れたり、強者と弱者をつくり、精神的に貧しい人々はむしろ昔よりも増えたという負の側面もある。市場に任せるままにしているとこのように実は非合理的な消費や自殺者の増加といった問題も必然的に生み出される。市場の暴走をコントロールする手段の一つとして、社会福祉や資源配分といった公的な力の介入が必要なのではないか。

 一方で、ラスキンの例のように芸術の分野で公共の力を借りると、若者が芸術教育を広く受けられるようになり、芸術のレベルが全体的に上がるのではないかと考えられるが、一方で社会への批判的な作品や表現の激しいものが排除されてしまう可能性があり、芸術が持つ本来の力が阻害されてしまうのではないかという恐れがある。公共の力は芸術を支えるべきではあるがある程の距離を置くことが望ましいというのが私の考えである。

 

 精神的な豊かさという論点については、まずボードリヤールの主張における消費社会の人々のように、差異化を求めて消費を行うことで、短期的な満足や安心は得られても、それは物質的なものに限られ、また他者の消費によってすぐに自分の地位が脅かされことになるのではないか。消費社会に依拠して消費のためにお金を稼ぎ、そのお金をすべてファッションや車、住居などに費やすことが精神的な豊かさにつながるかというとそうは思えない。

 シュンペーターの描く企業家像のように教養や魅力のない人物というのもいくら経済の発展に寄与しているとはいっても果たして一生をかけて目指すほどの価値があるのか疑問であり、また社会をモラルのないものにしていくのも好ましくないと感じる。

 芸術や教養、哲学に触れる機会を持つことで物質的な満足にとらわれない生き方を目指すことができるが、経済的な問題でそのような教育を受けることのできない人々もいる。英語教育なども大事ではあるが、芸術を学ぶきっかけがないと何も知らないまま終わってしまうかもしれないので、ラスキンの主張ように訓練学校を公費でつくるとまではいわないまでも芸術教育にある程度力を入れるべきであると考える。

 

 

西村 洋亮 北海道大学経済学部 2年未分属

2013715

 

 今回の授業で取り上げられたボードリヤールの理論は、私にある程度の納得と反感をもたらした。まずは納得できた点について述べる。

 ボードリヤールは「消費」を軸に個人のライフスタイルと資本主義についての理論を展開している。モノを買うことによって差異の素である「記号」を得て、それにより差異化を図るという主張は、アイデンティティの喪失が叫ばれている現代の日本社会と結びつく点が多い。高い金を払い個性的なファッションを求める若者はまさにそれを体現している。

 また、現代における資本主義の成因を、人々の欲求を枯渇させないことだと考察している点も興味深い。資本主義および生産市場主義的産業社会は需要と供給に支配されており、希少性がそれを支配するという彼の考えには深く共感できる。幸福の土台である安心が保障されている先進国で、なお消費が止まらない原因を考えるための材料の一つとして、非常に興味深い観点である。

彼が考察しているように、消費の成因が生産者側に委ねられているのならば問題は深刻になる。例えばマクドナルドなどのファストフード産業によって、今まで必要ではなかったはずのジャンクフードへの需要が生まれていると考えると、消費者は生産者の利益のために、健康を犠牲にした本来は不必要な消費を行っているとも考えられる。これが本当ならば、我々は健康と幸福のために経営者の企業倫理に対してこれまで以上に警戒することが必要である。

 しかし逆に納得できない部分も多い。まずは「真の豊かさは浪費である」とする彼の主張である。この理論だと、金が増えれば増えるほど浪費できる回数が増え、それが真の豊かさにつながることになる。だとすると、金の量と真の豊かさはある程度の比例関係を持つはずである。しかし、金銭を多く持っていなくともに豊かな生活は送ることができる。たとえばGDPではアメリカなどの先進国に劣るであろうブータンの幸福指数は非常に高くなっている。この「真の豊かさ」、また彼の論理で出てくる「あり余る豊かさ」の定義は金銭ではないのかもしれないが、それこそ数値化できないのではないか。幸福を計算式によって数値化することは経済学者の理想であり、それが実現できればよい。しかし現在の経済学ではそれは不可能であるし、真に理想的な、透明さと相互扶助によって成り立つ社会の構築を諦めた現実主義的な彼の姿勢に基づくならば、この前提は幻想でしかない。

 また、彼の理論の欠如はさらに2つ考えられる。1つは彼の豊かさには足し算しか存在していないことである。彼は浪費することで豊かさを得られるとしているが、金銭や時間の消費によって虚しさを得ることはないだろうか。たとえば、株式を大量に買って大損したとする。彼は確かに浪費をしているが、虚しさや悲しさしか残らないのではないか。また、タバコなど中毒から逃れられないがゆえに本人が考える幸福を実現できない場合もあるだろう。これらのケースのような、余計な浪費による豊かさの減少は考えられないのだろうか。

 そして2つ目は、消費をしなくても差異を手に入れられる点である。たとえば、他人との差異化のために貯金を選択した場合は、消費していないにもかかわらず「ほかの人より倹約な自己」というアイデンティティを得ることができる。

 今回の授業で私は、資本主義とアイデンティティの関わりに興味を持った。資本主義では個人の能力によって所得に差が出るため、幸福の基礎となる金銭に差が出やすい。よって個人間の差が広がり、家庭内でさえ所得に差が出る。これは社会主義や共産主義では実現できないアイデンティティの確立であり、資本主義の優れた点だと考えていた。しかし逆にアイデンティティの不安を煽ることで資本主義を維持させようとしているという考え方は衝撃だった。社会構造が個人を構成させるのか、その逆なのかは非常に難しい論点だと思われる。これに気づけたことは私にとって、今回の講義で得た非常に有意義なものである。

 

 

西村 洋亮 北海道大学経済学部 2年未分属

2013715

 

 今回の授業で扱われたシュンペーターは、経済全体の発展の質的に新しい現象だと位置づけ、それに必要な要素を彼の言う「企業者」を軸に展開していった。

 彼の言う「新結合」は既存の要素に注目している点で現代のイノベーション理論に結びついていると感じた。これに加え、革新は生産者による消費者の教え込みにより生まれるという主張は、まさに現代で起こってきたS.ジョブズのマッキントッシュやiPhoneなどによる技術的革新のプロセスと似通っている。生産者が消費をコントロールすると考える点では、ボードリヤールと近い考え方であると言えるだろう。

 次に彼の言う「指導者」と「企業者」の棲み分に関してもとても共感した。指導者は一般人に行動の指針を教えて、人々の行動を導く必要がある。生活の基盤となるルーティーンを整える役目と言ってもいいだろう。その教え自体は非常に客観的評価が難しい。しあがって人々に自分を受け入れてもらうためには、指導力のほかに「地位」や「教養」などのほかの要素によって指導者自身の客観的価値を高めなければ難しい。

そしてある意味では、彼は指導というプロセスがなければ人々の生活は善いものにはならないと考えている。この点で彼は祭司的な考え方を持っており、福祉国家的なシステムを好んでいる。

そして、企業者は既存の価値観とは別の立場から自らを発信しなくては価値が薄れるとしている。そして彼のいう企業者は他人に評価される賢明さや教養とは別の視野を求められている。その視野の土台として、人々から比べると欠落したり過剰であったりするパーソナリティが必要になるというものだ。しかしそれと同時に人々の考え方や今後の展開への洞察力が必要になるために大勢順応的にならなくてはいけないという、非常に独特な立ち位置として企業者を考えている。

 個人的に一番興味深かったのは「超合理的主義」についての部分である。シュンペーターの言葉を借りれば、企業者は「自分の王朝」「闘争意欲」「創造の喜び」を実現するために創造的破壊を行うとしている。特に興味深いのは、前者二つはともに動物的要素が強い点である。支配欲や闘争欲、優位性など野生での生存に必要な欲が基盤となっている。前述の企業家の要素から考えても、社会的動物である人間の社会的構造からはみ出した存在こそが企業家になると考える彼の主張がより深く見ることができる。ここで疑問に思ったのは、その優位性の評価の仕方である。企業家自身が自分の価値観を持ち、それに従って行動できているならばよいが、その基盤は何になるのだろう。指導による影響を考えると、実は企業家は指導者の気まぐれとも言える教養や価値観に合わせた行動をするように操られてしまう可能性もある。

また、最初時点では銀行からの信用による資金が必要になるが、その判断基準もどうなるのだろうか。資本主義であれば、利益や初期投資費用などの指標が使えるだろう。

しかし社会主義ではどうだろうか。銀行側からすると最初のリスク判断の時点で非常に難しい問題に直面する(尤も、社会主義に移行する時点で銀行のシステムが変わってしまう可能性も否定はできないが)。

 個人的には、経営学や革新についての考察が主だったからかもしれないが、数学的、論理的なものより信用や賢明さなど、心理的要素がより強く注目された理論であると感じた。また、一つ一つの理論自体はよく理解できたが、そのつながりの考察は難しいものだった。

 授業だけで学習しているせいかもしれないが、シュンペーターの理論は構成の基盤自体の構成要素についてもう少し述べるべきだと感じた。特に、指導によって与えられた教養とそれによって構成される多くの人々の価値観と、それらに囚われずに新しい価値観から物事を生み出した企業者のギャップをどう埋めるのかは疑問である。

 

西村 洋亮 北海道大学経済学部 2年未分属

2013715

 

前回の授業ではジョン・ラスキンが取り上げられた。彼の理論を自分の見解とともに振り返り、その妥当性を検討する。

 まず、彼の理論の特徴の一つとして、賢者による家長父制支配が挙げられる。彼は価値とはそのものが持つ固有価値を、個人の受容能力でどれだけ感じられるかで決まると考え、そのためには良いものの受容能力が高い賢者にその判断を任せ、価値を保持できるものや、それを生み出す創作者に対して支援があるべきだとしている。つまり彼は完全に祭司的な考え方を持ち、大きな政府を好んでいる。

社会に質の良いものが残り、後世に引き継がれていくという点ではよいかもしれないが。反論の余地は残る。まずは、その価値とはどこで判断するかである。多くの人を感動させるものがそうであるのか、それとも多くの人の目に触れるものがいいのか、その判断基準は人さまざまであろう。それに趣向はあるにしろ優劣は存在しない。クラシックを好む人も、ロックを好む人も、どちらも低俗でも高潔でもなく後世にも残るだろう。とすると、賢者による価値判断はつまるところ「富める人たち」にとって価値のあるものというだけであり、必ずしも全体の利益や幸福感につながるものが残るとは思えない。

つまるところ、上位者の価値観と大衆の価値観のどちらを優先するかは意見の分かれるところであり、彼の言うように賢者による価値判断とそれに対する援助という方法が必ずしも正しいとは断定できない。

 また、彼は市場の完全競争を否定している。彼は立派な精神を持つ支配者によって序列化した経済、ある意味で倫理経済的なものを良しとしている。確かにそれは理想ではあるが、実際の世界では問題点のほうが多い考え方である。まず、支配者が賢者であるかどうかによって多くの人々の生活が左右されることになる。一度、不道徳な支配者が存在した時点で体制は崩壊する。権力が集中することによってよりよい生活の水準を高めることもあるが、同時に人々の生活が不安定になるリスクも大衆の活動とは別のところで不安定になるとも考えられる。また、倫理主義的体制では不平等感が強くなることも問題である。支配者の趣向によって、被支配者の生活の質が左右されるという他者に依存した状態そのものを不満と感じる人々も少なくないであろう。

 彼の論理でまた興味深い点は、精神的活力による価値の低廉について述べている点である。低価格での高度な芸術作品の供給と、それらの作成者たちの満足を同時に実現している。しかし、これは作成者がその時点での報酬より多くの価値はその作成物にはないと信じている場合にのみ成り立つ。市場での価値よりも低く自分たちの評価がなされていると知れば、ただちに不満を抱くことになるだろう。そう考えると、ネットオークションなどにより、個人間でのやりとりがたやすくなり、大衆の価値判断が容易に客観視できるようになった現代では用いにくい考え方である。

 もし上記の理論を実現するならば、政府は情報統制を今まで以上に強化し、芸術者が市場における自分たちの作成物を常に過小評価しなければいけない。彼の理論は結局のところ、賢者による価値判断に留まらず、政府の権限を高めることのよって大衆を統制することで安定を実現しようとする官僚的な社会モデルに収束する。

 

 

経済思想小レポート「ボードリヤール」

農学部農業経済学科3年 甘利 雄太

          

 「資本主義」とはなにものなのか。その答えの一部が今回の講義で垣間見えた気がする。

 日本では70年代までに機能を充足するためのモノの普及がおおむね完了し、豊かさが実現された。そして80年代以降は消費社会に突入していった。ボードリヤールのいうところの消費対象が「モノ」から「記号」に変わっていったタイミングが日本においてはこの時代といえる。

 それ以降、我々の消費はまさに資本主義の思うがままになされてきたようである。モノの充足によって豊かさを得たはずの人々に対して、資本主義は「欠如」の感覚を呼び起こさせることによって新たな「記号」の消費を惹起させる。その結果、人々の欠如の感覚は際限のない消費を生み出す。こうして資本主義が次々と提供してくる記号という名の差異によって、人々は満ち足りることのない無限の消費へと突き動かされていくのであろう。

 

 私が以前から気になっていたことに「流行とは何か」という問題がある。流行は本来、消費者の側から作り出されるもののはずである。あまたある商品の中から人々が個人の価値観をもとに同じ商品を選ぶ。そしてその商品を持つ人が一定の割合を占めるようになり、「流行」という世間の空気がうまれる。これが従来私の持っていた認識だった。

 それに対して、テレビなどのメディアの言うファッションの流行というのはこれとは違うでき方をしているのではないかと感じていた。というのも、次の季節の商品についてこれがトレンドに「なる」、というような紹介の仕方がされていたからである。まだ来ていない季節のトレンドが消費者側から出来上がっているはずがない。ここでいうトレンドとは生産者側から与えられたものなのではないかとその時に感じた。講義を基にすると資本主義側から資本主義のドライブのために消費者に与えられたもの、と言い換えることもできるのかもしれない。結局は流行も資本主義の維持のために作り上げられたものにすぎないのかもしれない。私が持っていた違和感の正体が明確になった瞬間であった。

 それ以上に衝撃的だったのは「個性とは何か」、ということについてであった。ボードリヤールの考えをもとにすると、個性すらも生産側から与えられる形式のひとつに過ぎず、結局消費者はその与えられたコードに従わされているということであった。たしかに売っているものはすべて他の人たちの個性によって生産され、消費者はそこから選択することしかできない。その選択にしても社会で生きている限りは資本主義によって与えられる個性の規範の影響は否定できない。よく考えてみると、生産する側も資本主義の規範に従っているだけで、そこにも個性は存在しないとも考えられる。すると個性というものはこの世には存在しないのだろうか。極端に考えれば他者に何の影響も受けない、つまり接触を一切持たない状態でないと「個性」というものは存在しないのか。もっともそのような状態は現実的ではなく、個性というものはこの世に存在しないと考えたほうが理解しやすいだろう。

 

 以上の二点だけでも現代の消費にかなり疑問を持ち、そのあり方について違和感を持った。他の立場からこの考えを否定する見方も当然存在するのだろうが、現状の私はボードリヤールに完全に説得された状態になっている。話題が消費という生活に密着した内容だったことで理解しやすかったことも、容易に説得されてしまった一因としてあるのかもしれない。いずれにしても今回抱いた疑問を大切に、現代の消費について理解を深めていきたい。

 

シュンペーター「経済発展の理論」

農学部農業経済学科3年 甘利 雄太

 

 経済発展とは何によるものなのだろうか。シュンペーター曰く、それは企業家の生み出す5つの新結合から生み出される。企業家は発明家と違ってものを直接的に発明はしない。彼らは従来あるものに文字通り「新しい結合」をもたらすことで発展を生み出す。そしてその遂行を自らの機能とするのである。この点については多少の違和感を感じたが、確かに企業家の能力はすでにこの世にある新しい発明をいかに現実世界で使えるものにしていくか、という分野において発揮されている。例えばインターネットの普及について。その技術自体は庶民に普及するはるか以前に作り出されたものだ。だがそれを広く一般に普及させるには企業家の能力が必要だったであろう。彼らは定額で安価なネット接続を実現することによってインターネットの利用を急速に一般化させていった。パソコンもインターネットも彼らの発明ではないが、そこに新しいサービスを組み合わせることでその普及を果たしたのである。

 またシュンペーターはこういった新しいサービスへの欲望は生産者側から消費者へと「教え込まれる」ものであるとしている。この点についてはボードリヤールの主張と共通点が見られる点が興味深い。新たなサービスはその存在を知らされない限りにおいて、我々が日々行う消費の候補には上がってこない。主には企業のプロモーションによって私たちはその商品への興味を抱く。このことを踏まえるとこの指摘は正しいものであるとすんなり飲み込むことができる。

 さて、その新結合だが、シュンペーターはその遂行のための源泉として「信用」、つまり銀行による貨幣創造を挙げている。そしてその役割を担う銀行こそが唯一の資本家であり、交換経済の監督者であるとしている。経済を拡大していくためには市場にあるお金の量を増やしていくしかないが、銀行は信用という目に見えないものによって架空のお金を生み出し続け、資本主義を回転させ、拡大させ続けている。企業家は銀行の庇護のもとで新結合の創造に励んでいるということであろう。つまり銀行が拡大させ続ける価値に追いつくだけの新創造を企業家は作り出し続けていく必要があり、両者の併進関係が破たんすることでバブルの崩壊といったような減少につながるということだろうか。企業家は銀行によってその創造量をコントロールされている。また銀行は企業家の生み出すであろう創造の程度に応じた貨幣創造が必要になってくる。この点を踏まえると銀行が交換経済の監督者という主張は的を射ているのではないだろうか。だが、たとえ企業家を躍らせているのが銀行であったとしても、常に危険を負担しているのは企業家ではなく銀行であるという主張が現実に当てはまるのかは疑問を持った。経済全体に問題が生じたときには銀行がその負担を負わなければならない。だが企業家個人の失敗のレベルにおいてはそれぞれが負担を負うことによって全体のバランスが保たれているのではないかと感覚的には思った。この点についてはもう少し考えてみたい。

 

ジョン・ラスキン「芸術経済論」

農学部農業経済学科3年 甘利 雄太

 

 富とは芸術そのものが持つ固有価値とそれを鑑賞する人間の受容能力とが組み合わされて生まれるものだとラスキンは述べている。恐らくどのような商品でもその使い道を真に理解する人間こそがそのものによる効用を最大化できるという点からこの点は理解しやすい。

 しかし芸術においてはそのよさを真に理解することができる人間ではなく、富者階級が自らの所有欲によって作品を所持するという事態が起こっている。その結果として作品は本当にそれを求めている人間のところには行き渡らない。すると社会全体として作品から受けられる芸術的な効用は小さくなってしまう上に、作品が取引される値段は彼らの虚栄心によって不当に釣りあげられる。富者階級にとって芸術作品は貴金属のアクセサリーと同等の意味合いしかもっていないかもしれない。しかも現実に高値で取引される作品は、その作者の多くがすでに亡くなった過去の偉大な芸術家たちである。彼らが名声を大きくしていく一方で、ラスキンの述べるような青年芸術家たちは彼らと比べるとかなり低い評価しか得られていない。彼らの中には才能を持っていても貧しい生活を余儀なくされるものもいるだろう。過去の偉大な芸術家の中にも死後にその作品のよさが評価されたが、生前は極めて貧しい暮らしをしていたというものは多い。とはいえ亡くなった芸術家の作品はこれ以上新しく生まれることはないわけであり、その希少性から高値で取引されるのも妥当であるという説明は可能である。

 青年芸術家たちの悲劇は過去の偉大な芸術家と同じ土俵で戦わなければならないことである。工業などであれば技術革新によって古いものは淘汰されていく。しかし芸術に関しては現代アートなどの新しいかたちのものもあるかもしれないが、基本的な部分は今も昔もそう変わらない。過去の作品が淘汰されることなく蓄積されていく中では新しい作品の評価は自然と低くならざるを得ない。そういった中で生活に苦しみ、安物の制作に励んでしまうことで本来の才能を開花させることができない芸術家も多いのだろう。偉大な芸術家というのは数十年に一人の存在であり、現在でもあまた創作される芸術のすべてが過去の偉大な作品と肩を並べられるわけがないのは当たり前である。つまり芸術の市場はある意味飽和状態であり、新たなる芸術家たちを育成していくのは容易ではないのであろう。社会で必要とされれば芸術家たちの生活は向上するが、飽和状態であり必要とされづらい現代では芸術だけで生活できるものは少なくなる。

 残された道は工業などと同じように人々が昔の芸術に見向きもしなくなるような技術革新を起こすことだろうか。そういったことが可能であればいまを生きる芸術家たちにも新たなる道が開け、さらに芸術の多様性も深まっていくのかもしれない。しかし現実的にはそのような変革は困難であるように思える。年がたつにつれて作品はさらに蓄積されていくわけであり、新たな作品を制作することへの苦悩は深まり続けていくというのが芸術家の宿命なのではないだろうか。